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INFO:
「荷物送るよ?」「新しい住所教えたくない」別れ話をした翌朝、私は彼に言った_「そっか、それもそうか」「うん」私は荷物を抱えて、玄関に向かった_「重くない?」「うん、平気」私は荷物を床に置いて、靴を履いた_玄関のドアには、イルカのマグネットが付いていた_「あ、水族館で買ったマグカップ」私がそうつぶやくと、彼はキッチンに向かった_「あった」そう言って彼は、マグカップをふたつ持って来た_「はい」「ふたつもいらないよ」「でもこれ、俺お金出してないし」「いいよ別に、いらなかったら捨てて?」「わかった、ありがと」彼は、青色のマグカップを胸に抱えた_私は、白色のマグカップを受け取ろうとした_すると彼が「待って」そのままリビングに向かった_「なに?」「このままじゃ割れるから」彼は、マグカップを紙に包んで持って来た_「別によかったのに」「怪我されたら困るし」彼はそう言って、マグカップを紙袋に押し込んだ_「また、重くなったね」「平気だよ」私はカバンを肩に掛けて「それじゃあ、行くね?」と、残りの紙袋を両手に持った_「うん、気をつけて」いつもならここで、彼とハイタッチをする_『いってらっしゃい』『いってきます』そして、晩ご飯の話をする『今日こそは、シチューね?』『ええ、カレーだよ?』『待ってよ、昨日買った材料、どう見てもシチューやろ』『カレーでしょ』『あ……』『なに?』『俺たちさ、ルー買ってなくない?』『あ、ほんとだ』『そりゃあ、こうなるか』『じゃあ私が、帰りにルー買って来るね?』『ねえ、ぜったいカレーになるじゃん』『いいから、早く出ないと遅刻する』『はいはい、わかったよ』そうやって私たちは、どんなに言い合っても、毎朝かならず笑顔でハイタッチをした_でももう、明日からは夕飯で揉めることはない_ふたりでキッチンに立つこともないし、洗面台の前でふたりで歯を磨くこともない_歯ブラシは捨てたし、メイク落としはカバンの中_洗濯物も、明日からは半分で済むし、浴槽のお湯だって残しておかなくてもいい_随分と軽くなった私は、重い荷物だけを抱えてドアを開けた_もう2度と私は、この扉を開けることはない_シチューのルーを抱えて帰宅した私に、彼が笑顔で迎えることもない_扉が閉まり、私はエレベーターに向かった_増えて行く数字を見つながら、私は彼の将来を願った_3ヶ月前、彼は突然『仕事を辞める』と言い出した_彼は『イラストレーター』を目指していたから、私は背中を押してあげられるはずだった_けれど、周りが結婚をしていく中で、私は彼と付き合って3年、不安にもなっていた_その日を境に、彼とはすれ違うようになり、彼の夢の邪魔をしないためにも、私たちは別れることを決めた_エレベーターが開き、私はかかとを上げた_下がって行くエレベーターの中で、私はガラスに映る自分を見つめた_初めてここに来た日、ガラスに映る私を見て彼が『口もとにあるホクロ、俺と同じ』と言った_『ほんとだ、気づかなかった』『あとでさ、お互いの似顔絵描いてみない?』『ええ、私下手だよ?』『いいじゃん、見てみたい』あの日に描いた2枚の似顔絵は、もうどこにあるかはわからない_きっと大掃除のときに、どちらかが気づくことなく捨ててしまった_扉が開いて、私は外に出た_駐車場を歩きながら私は「やっぱり重たい……」そうつぶやいた_偶然通り掛かったタクシーに、私は手をあげた_荷物を送るよりも高い金額のタクシーに、私は乗り込んだ_見慣れた景色を眺めながら、私は紙袋を抱きしめた_嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂いがして、私は中身に顔を近づけた_「え……」マグカップを包んだ紙に、何か模様が描かれていた_剥がしてみるとそれは、「捨ててなかったんだ……」彼が描いてくれた私の似顔絵だった_ぐしゃぐしゃになった私は、それでも幸せそうに笑っていた_「こんなの、最後までどこに隠してたの……」窓の外にはもう、見慣れない風景が流れていた_いまごろ彼も、私が描いた似顔絵を手に、涙を流していてほしかった_そして、今夜だけでもいいから、壁に貼ってくれることを願った_『ねえ、せっかく私もうまく描けたんだし、この似顔絵リビングに飾らない?』『それは嫌』『なんで?』あのとき彼は、ふたつの似顔絵を見比べながら、幸せそうに微笑んでいた_『だってほら、俺たちに色褪せるなんて言葉、似合わないよ』_